
どうしてメーカー技術職の仕事やめたんですか?
どういうことしていたんですか?
こうした悩みを解決します。
胃から血が出るほど苦しかった新入社員時代
私はもともと、化学を専攻して大学院を卒業しました。
電気回路もプログラミングも何も知りませんでしたが、ご縁があって、電気計測機器メーカーの技術職として採用していただきました。
2次募集のポテンシャル(=入れば何とかやっていけるでしょ)採用です。
同期は皆、電気科、物理学科、数学科のいずれか出身で電気かプログラミングか何かしらできる状態でした。
入社後は集団で技術研修を受けましたが、スタートラインが明らかに違って相当焦りました。
結局、何もよく分からないまま10月に配属が決まり、マンツーマンの先輩もついてくださいました。
現場では、ちょうど開発中の製品の評価試験をやるところで、一通り担当することになりました。
装置の使い方、技術資料の作り方、会社のルールなど、たくさん教えていただきました。
正直、毎日が必死でした。
分からないことが多すぎて頭が働いてないし、だんだんと「この会社に入ったのは間違いだった」という気持ちが出てきました。
先輩に色々質問しても、助けてくれるようで、助けてはくれませんでした。
12月の年末に、部の飲み会で先輩から

姫野さんって分かってないのに分かったフリするよね?あれは無いわあ
と酔っぱらった勢いで?言われたのを今でも覚えています。
先輩の言ってることは正しいです、たしかに分かったをフリしていました。
なぜなら「分からない」というと明らかに先輩の機嫌が悪くなるので、その場をしのぐことに一生懸命でした。
現場では先輩に聞かなきゃいけないので、何度も質問して、分かったフリして分かってない状態が続くうちに、微熱と吐き気が止まらなくなってきました。
食事が喉を通らず、一気に痩せてきて、体重は8kgほど落ちました(176cm, 55kgなのでガリガリ)。
いよいよやばいと思って病院行ったら、胃カメラをやることに。
結果、びらん性胃炎で、胃の中が血だらけになってました、、、。
先輩との関係は悪い、会社に何も貢献してない、何も知識が身につかない、
やめても無職になれば先が無い恐怖、何のために働いてるの?何のために生きてるの?
自分の無力さに絶望して、もう正直この時期は死にたいと思うほどつらかったです。
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海外逃亡を図る
入社から3年目の4月、食事量を減らし、薬を飲んで胃酸過多を抑え、なんとか体調が戻ってきていました。
ある日、技術部向けに「海外販社(中国)への海外駐在募集」のお知らせが出ていました。
1年間駐在し、中国で売れる新製品企画を作ることが目標です。
製品知識もない、技術力は何もないけど、今すぐこの環境から逃げたい、の一心で応募しました。
ある日、課長に呼び出され、駐在決定の知らせをうけました。
それから6月中旬には中国、上海に駐在することになりました。
その後、営業員と現場同行しながら、市場調査をするわけですが、当然何も知らないので、案の定役に立ちません。
中国語も喋れないし、現地の営業員から馬鹿にされるのが常でした。
(日本語できる営業員の人とは仲が良く、私が何を言われているか色々聞けました)
普段の生活をすることすらままならないなか、駐在先でもうまくいかず、7月末にまた熱を出してダウンしました。

役に立たない、無能すぎて〇にたい。。。
なんで働いてるの?てかなんでいまここでこんな状況なの?バカなの?
あー、俺は一体何やってんだよ!!!!!!!
なんだよ、このくそみたいな人生は!!!!!
あああああああああああああああああああああああああ!!!
俺が生きてる意味なんてねええええええええ!!!!
2日間、そんなことを考えながら高熱でもがき苦しむ中、突然ふと、働くことの意味が、答えが出たのです。

いや、待って、違う違う!悪いの全部俺だ。
他人のために全力尽くすのが仕事でしょ、やってないじゃん!
相手に喜んでもらえるように目先のこと1つ1つ全力でやってみよう!!!
入社後の焦りからか、いつの間にか他人と自分を比較して、劣等感を感じるのが習慣化していました。
そして失うものがない、ってのは強いです。ここから事態が急転していくことになります。
・製品が出力する結果がおかしいけどなぜ?
・こういうところでも使ってよい?
訪問先では、こうした質問をよく受けました。その場で本社の製品担当者に国際電話し、すぐ回答するよう努めました。
内容は海外販社、本社にも共有し、こういうことがあったよ、と記録を残して共有しました。
だんだんと製品知識が身につき、海外販社でも本社でも、多くの人と打ち解けてきました。
中国語も少しずつ聞き取れて、喋ることもできるようになってきて、中国生活が楽しくなってきました。
気づけばびらん性胃炎も無くなって健康な体に戻っていました。
その後、広州に拠点を移し、毎週何度も、深圳と広州を行き来しながら現地の困りごと解決をしながら、製品企画を練り上げました。
1年経ち帰国し、製品企画を発表しました。結果それは開発に至ることはありませんでした。
しかし、中国で得た経験は、自分の仕事に対する向き合い方を決める最高の場だったことは間違いありません。
帰国後、ソフトウェアの開発担当に
帰国後、会社組織が変わって、先輩は部署異動になりました。
私は入社後からやってきた製品群を扱う課に属したままでしたが、いかんせん開発はまともにできません。
課長も変わり、お互い「どうする、、、?」という雰囲気でしたが、2つの製品開発を同時に進めている先輩がいて、1つを私が引き受けることになりました。
それは既存製品を流用した新モデル品だったので、元の製品とソフトウェアがあって、手元で色々試すことができたのがとても効率よくできてよかったです。
(=組み込みやるなら、まず動かせるサンプルを手に入れて、ってよく言うのはこれに由来している)
とはいえ、数万行のC言語ソースコード何十ファイルを一気に理解できるわけもなく(ポインタのポインタとか、関数ポインタとか初心者には難しすぎる)、周囲にサポートいただきながら、仕様書を基に動作やプログラミングを教えてもらいました。
この件で関わった開発チームは、雰囲気が新入社員の頃の現場と全然違って、とても伸び伸びとできる環境で一気に開発知識が身につきました(ブレイクスルーが起きる)。
ソフトウェアリーダーになる
無事に新モデル品が発売に至り、ホッとしたのも束の間、次の製品開発でソフトウェアのリーダーとして取り組むことになりました。
(知識があるのではなく、単純に人がいないから)
ここで初めて、1からソフト設計、仕様書の作成、ソフトウェアレビュー、評価試験項目の作成、製造ラインに使用する通信コマンドの取り決め、など製品開発に付随する諸々の業務に取り組むことになります。
この時期は、メンバーにも恵まれて、仕事が楽しくてしょうがなかったです。
後に大問題になる重大バグを仕込んだまま製品発売してしまったのもこれです。
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既存製品の責任者になる
製品は何年も継続して発売するわけですが、
・営業から技術に問合せや要望
・部品取扱中止による設計変更
・取説の見直し
など、面倒を見続ける必要があり、その責任者として製品をもつようになりました。
廃止製品も含めると、数にして40~50くらいの責任者になりましたが、
製品開発の傍ら、既存製品を対応する中で他部署と連携するコミュニケーションは大事と痛感。
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開発リーダーになる
中国からの帰国後、製品開発や既存製品をこなして4年ほど経ち、
課長から時期開発製品の開発リーダーをやるようチャンスをいただきました。
関係する規格の変更に伴い、既存製品を廃止・流用する形で新製品化するもの。
メンバー集めて開発スケジュールをひき、原価利益計算して、競合分析して、
多くの関係部署と調整して、根回しという技術を学び(笑)、開発をスタートさせる。
後輩指導しながら開発進めて、どこかで遅れが出てないか、ちょいちょい全体を見ながら、自分は別の開発製品のソフトウェア担当をする。
このときは多忙をきわめ、気づけば同時に2製品の開発と1製品の設計変更をやっていました。
本当はよくないのですが、土曜日・日曜日もこっそり会社にきてずっと仕事してました(もちろん、残業代は出ない)。
こんな生活が半年ほど続きました、けど全然それは苦じゃなかったです。
むしろ、皆で同じ方向向いてよいもの作ってる、という感覚は本当に楽しいです。
自ら考えた製品企画を後輩に潰される
開発リーダーを務めた製品も無事発売に至り、他製品の対応も終わり、
ちょっと時間ができたので、常々作った方が良いと思っていた製品の市場調査を始めました。
それは海外向けの製品で、インドやドバイに赴き、営業員の方に現場に連れて行っていただき、やはり需要はある。
しかも、会社の強みと差別化すべき点の相性がよく、市場拡大に向けて取り組む価値がある、と製品企画の資料をまとめることにしました。
このころ組織変更があり、製品企画や既存製品問合せは別部署に分けることになりました。
技術の数名がその新設部署に異動することになり、技術は開発に専念、新設部署が企画や他部署連携することに。
しかし、彼らは彼らの専門があり、他の製品のことは詳しくなく、結局、窓口になっているだけで技術が対応することになるのです。
これは本当に意味のない組織変更でした。
彼らは知らない製品の新製品を企画できるわけもなく、技術が新製品企画を作ることになるのですが、厄介なことに、新製品企画は新設部署にまず了承を取る必要が出てきたのです。
ここで私は足を引っ張られることになりました。
同じ課だった後輩の1人が新設部署に異動したのですが、私は彼に嫌われていました。
彼と私は、新入社員だったころにマンツーマンでお世話になった先輩が同じで、先輩から私のことを色々聞いていたのでしょう。
これまで彼と直接喋ったことはありませんでしたが、新製品企画を持って議論した際に、すごく敵意を持っていました。
そして新製品企画に対して、常に揚げ足を取るような、重箱の隅をつつくような意地悪い質問をし続けて、企画が了承されることはなく半年近く経過することに。
課長に助けを求めるも、新設部署なゆえに、むげにできない様子(裏にどういうパワーバランスがある?)。
「なんでやってないの?」で心折れる、退職へ
その後、さらに事態が悪くなったのは、技術の大きな組織変更があり、所属していた課が統廃合で単体の部署として無くなることに。
通信アプリを作っている部署と統合されることになったのですが、なんとその課長として私のマンツーマンで担当していた先輩が抜擢されたのです。
ただでさえ、それは憂鬱でしたが、何より既存製品の通信対応を最優先として、新製品企画をいったん断念して4製品を同時に対応することに。
すべてが新製品となるので、半端なく忙しい日々が続きました。
それから数か月経ち、賞与の評価面談で課長となった先輩と面談することになりました。
評価面談は半年分の計画をあらかじめ立てておき、その進捗を面談で見て評価するもので、そこには組織変更前の、自ら企画している新製品をどうするか記載していました。
しかし、実際には組織変更でやむを得ず中断と至ったわけですが、これについて面談ではひどく叱責されることに。

なんで書いたのにやってないの?

組織変更前まではやっていましたが、
組織変更に伴い既存製品の通信対応が最優先となったことから、中断しました

やりたいなら残業してでもやれよ!!
これには本当にびっくりしました、今まで会社にいて、声を荒げる人を見たことなかったのですが、
なにより、ずっと我慢し続けて諦め、最後に怒られる、という意味不明な状況。
評価は8段階あるのですが、技術は何もなければ上から3番目が基本で、頑張りによって1番目か2番目。
私事ですが、ソフトウェアリーダーになったくらいから1番目か2番目しか取ったことがありませんでした。
そしてこの面談でつけられた結果は5番目でした。これはもうありえないほど低いです(私以外に見たことない)。

これだけ我慢して、後輩に足を引っ張られ、不当な評価をつけられて、、、悔しい!
俺だって、できるならすぐにでも新製品企画進めたいんだよ!!!!!
この状況に、心が折れました。
まったく仕事をやる気がしなくなり、何も決まっていませんでしたが、退職を決意。
会社は好き、一緒に働いてる人も好き、仕事も楽しかったけど、この環境で働くのは無理だと感じ逃げることに。
同僚や偉い人たちにも止められました、部署異動も薦められましたが、全てを断りました。
あんなに楽しかった会社での生活が、度重なる組織変更でこうも簡単に壊れるとは。一寸先は闇ですね。
ちなみに、私の退職後にまた組織変更があり、私の製品企画は機能追加して開発されることになり、4年後?に発売されるのでした、、、(おいおい。
まとめ
・畑違いの分野に就職して四苦八苦。胃から血が出るほどの精神疲労
・逃げたい一心で中国に逃亡。そこで働く意味の答えが出る
・タイミングよくソフト担当、ソフトリーダー、製品責任者、開発リーダーとステップアップ
・新製品企画を立ち上げるも後輩に足を引っ張られ、進まない
・不当な評価、状況に心が耐えられず、退職
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